<「とはずがたり」を読む会>からの「お出かけ」で、三嶋大社参拝に行ってきました。
今回は作品『とはずがたり』に作者後深草院二条が訪れたと書かれている場所を、実際に訪ねようという「お出かけ」です。
733年前に、都から鎌倉を目指して旅をした二条は1289年3月(太陰暦)の下旬に三嶋大社を参詣しています。
『とはずがたり』巻4 三嶋参詣場面は
(こちら) ←から。(現代語訳)
そこで、今回は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも話題になっている三島の「三嶋大社」に「お出かけ」を計画しました。
現地に赴き、その時の作者の心情を想い、歴史・時代にも思いを馳せてみようという試みです。ちょっと大袈裟ですが、「二条と行く『とはずがたり』の旅路」とでも称したいところ。 何よりも知ることを楽しんでの「お出かけ」です。
当初より三島への「お出かけ」は、9月21日を予定していましたが、台風14号の上陸予報に荒れた天候になるかもしれないと、切符購入も控えて天候の成り行きを見守っている状態でした。日程変更も考えていたところ、
幸いにも当日は台風も北に抜けて、曇りマークだった空から陽さえ差しはじめました。三島に着いた頃には爽やかな秋日和となってウキウキ。「これで三嶋大社の金木犀が二度目の花をつけていたら最高ね」と話しながら改札を出ました。
三島駅前の観光案内所で「
みしまっぷ」(観光コース案内地図)をいただいてから三嶋大社へ。 と言うのは駅からまっすぐ大社へ向かうのではなくて、出来れば733年前の1289年(鎌倉時代)に後深草院二条が通ったと思われる道を確かめて、その方向から三嶋大社に入ってみようと考えたからです。
西から大社に至る街道は東海道だと思い込んでいました。『とはずがたり』にも「伊豆の国三島の社に参詣した 云々」の前には「宇津の山を越えたはずなのに蔦や楓もみえなかったので分からないままにもう過ぎてしまったようだ」と、次の歌を詠んでいるのです。
言(こと)の葉も 繁しとききし 蔦はいづら 夢にだにみず 宇津の山越え(
歌などに沢山詠まれていると聞いた蔦はどこにあったのだろう。宇津の山越えは夢にも見なかったけれど)
『伊勢物語』にある宇津の山越えをしての「東下り」の道を来たと作者は思っていたけれど、それは「
東海道」ではなくてこの「
まっぷ」に記されている「
鎌倉古道」を通って三島の社に入ったと考えられるのではないか、と思ったからです。
最初は駅南口より徒歩3分
楽寿園 へ

明治維新で活躍された小松宮彰仁親王の別邸
自然豊かな公園内に建っています。
親水公園になっている
源兵衛川 
美しい水辺環境が市民活動により保たれ憩いの場になっている。
鎌倉古道 と 説明板の置かれた道

『とはずがたり』の作者後深草院二条より12年早い1277年に、
『十六夜日記』の作者阿仏尼は「鎌倉古道」を通ったと書いている。
三嶋大社 へ
総門 
鎌倉古道を通ってくると、三嶋大社の「総門」前につくことになります。
南へ戻るかたちになりますが、旧東海道沿いに立つ三嶋大社の
大鳥居まで来た時に、金木犀の香りが風に乗って漂っていることに気づきました。
「あ~ 咲いてるんじゃない? 」 歓声 ♪ 上品な香りに皆さん感激でした。
神門 の手前の
腰掛石 
源頼朝が腰を掛けたという石。傍らの小さな石は北条政子の腰掛け石。
天然記念物
三嶋大社の金木犀 
金木犀は大鳥居、総門を通り、先の神門を入った奥にあるのにもかかわらず 大鳥居の所まで香りが届くとは、ちょっとした驚きでした。

樹齢200年という古木の周囲に育つ後継樹に二度目の花がつき始めています。
目を凝らしてよーく見ないと分からない程度でしたが、これらの花が満開となったときの香りはどんなでしょう。
満開時には「木犀の夕」が催され、舞楽・筝曲が奏されるということですが、
今年もコロナ感染予防対策の一環で、行われないとの情報をいただきました。
最後に、
宝物館に掲げてあった「三嶋大社神主家矢口部氏歴代」の年表に
鎌倉時代
1277 阿仏尼 十六夜日記に記す
1282 一遍上人が参詣す
1289 後深草院の女房二條が参詣。「とはずがたり」に記すと書かれているのを見ることが出来、満足して帰路につきました。